opensesame_mamaslife’s blog

アルバイト保育士しながら子育て中。三人娘に、長男坊の旦那を育てるおかんです。自分の頭の中と心の中を書いていきます!

父との残りの日々、母の入院生活

父との最後の生活が始まり、
産休に入る前の私は想像もしていない
大変さに、何とかついていく毎日でした。

2019正月
母が外出というかたちで、
家にもどり、家で、お祝いをしました。
この日が父と母が生きて会った最後の日。
あんなにずっと二人一緒にいたのに、
最後の1ヶ月、2人は別々に過ごしました。


父はまだ少しなら食べられたり、
話もたくさんできて、
私たちのこれからのこと、
今までのこと、たくさん話ました。

でも、家には父だけじゃなく、子ども達もいて、なかなかゆっくりできず、寂しい思いを
させてしまっていたのかな?

いつも作ってもらっていたごはん。
私が作ったごはんを食べて、
美味しくなければ、遠慮なく
けちょんけちょんに言う父ですが、
美味しい時には

「上出来や!」

と褒めてくれました。

でも、少しずつ弱っていく父。

母は少し遠い病院に入院していたため、
幼子2人と大きなお腹を抱えた私は
なかなかお見舞いにいけず、
姉と兄が病院に行ってくれていました。

すぐに退院できると思っていた母は、
合う抗がん剤がなかなか見つからず、
良くなっていることはなく、かろうじて
進行を防いでいるものの、副作用で身体は
ボロボロでした。
痛みに弱い母は、痛みどめに頼り、
薬の加減で意識が朦朧としたり…

治療がないわけじゃないけど、
この朦朧とした状態では進められない。
そして、突然ご飯も食べなくなり、
薬と点滴の毎日。
結局は母も緩和病棟に行くことに。

それなら、父と同じ地元の病院へ
転院させて下さい。と頼んだのですが、
色々手続きがあって、なかなかすすまずで…

そんな毎日の中、父は確実に天国に近づいていきました。
いろんなことが
1人でできなくなっていく父を見ているのは
辛く、それでも、気持ちを強く持ってほしいと無茶を思ったり…

お腹の大きい私が父を支えるのには限界があり、結局家で住み始めて1ヶ月後、病院の緩和病棟に入院することになりました。

こんなお母さんでごめんなさい。

当たり前のように子育てしながら、
時々すごく怖くなるんです。


こんな私みたいな人間が
子どもを立派に育てられるのか。

私は、
感情的で、
頑固で
口うるさくて、
平等が好きで、
不平等が許せない。
間違っていることを
正さずにはいられず、
口も悪い。

子どもに対しても、旦那に対しても、
甘えてしまってる部分もあるけど、
言いすぎてしまうことばっかりで。

長女はそんな私をずっと見てるから、
同じ口調になったり、顔の表情まで
真似てきます。


どうしてもっと穏やかに育てられないんだろう。
どうしてもっ優しく言い聞かせてあげられないんだろう。

また怒ってしまった。

何だかイライラしてる。

歳の近い子どもが三人もいるからなんて
言い訳にもならない。

でも、子どもはいつも私を愛してくれて。

でも、そんな資格ないと思ってる私は、

子どもの

「お母さんがいい」

の声すら気を遣わせてるのかな?

なんて悲しくなって。


親として、もっと強くなってほしい。
もっと優しくなってほしい。

“こうなってほしい”
が強すぎて、

余計なことばかり言ってしまう。


うまく育てられない自分が不甲斐なくて、

こんな母親を持った子どもたちが可愛そう。


こんなことで、子どもたち、まっすぐ育ってくれるのかな?

子どもたちに思う

“こうなってほしい”

は、

自分が

“こんな人間になりたい”って

ことなのかな?


なってほしい大人の見本を見せたいのに、
逆なことばっかりしてる。


分かってる。


子どもが悪いんじゃない。


子どもは親の鏡。


怒ってしまうのは
自分に似てるから。

怒ってしまうのは、
自分にイラつくから。

怒ってしまうのは、
自分に余裕がないから。

怒ってしまうのは、
自分が甘えてるから。

怒ってしまうのは、
子どもは許してくれるから。



結局私はダメ人間で、
自分の不甲斐なさを
全部子どもに押し付けて
しまってる。


でも、

子どもに何かあったら全力で守るし、
子どもが傷つくことを考えるだけで
泣けてくる。
子どもの笑顔が好きやし、

誰よりも幸せになってほしいって願ってる。


もっと優しいお母さんになりたい。

父の退院。残りわずかな日々。

家の引っ越しを控えた頃、
父が検査でひっかかりました。

3か月ごとに受けていた検査。
前回は異常なし。


でも、あきらかに体調は優れず、
痩せていき、歩くのもしんどいほど。
お風呂はかかさず入っていた父が、
お風呂に入るのがしんどい。
というほど。

今回の検査には嫌な予感がする。
と、うすうす感じとってはいましたが、
やっぱりひっかかってしまって。


難しいことは分からないのですが、
簡単にいうと、
ずっと隠れてこそこそといた
癌細胞が、突然動き出して、
そのスピードがすごくて、
どんどん進行しているとのこと。

普通の人なら余命3ヶ月くらいでも、
この速さで進行してたらそんなにも
生きられない。と。

父の体力では治療をすることもできない。

と診断されました。

治療がないということは、
病院にはいられないんですよね。
緩和ケアはあるのですが、
ずっとはいられないので。

そんな状況でよほどストレスが
たまったのか、母の体調も悪化。
父が入院した3日後に救急車で
運ばれ、そのまま入院になりました。


二人とも入院。

父は家の近くの病院。

母は少し遠い市内の病院へ。


そして、病院にいられなくなった父は、
我が家で一緒に住むことに。

賃貸の家ではできなかったけど、
買った家は子どもが小さい今、部屋が空いていて
問題なく、父を受け入れることができました。

このタイミングで家を買ったこと。
父との残りの時間を過ごせること、
偶然とは思えませんでした。

父は私に迷惑をかけることを考え、
遠慮しているようでした。

そんな風に父が遠慮することが寂しくもあり、
父らしいな。という思いもあり。。

旦那は快く承諾してくれました。

今まで散々お世話になってきたので。

旦那がそうして父を受け入れてくれたことは、
今までとこれからの結婚生活の中で
多分、一番感謝する出来事だと思います。


引っ越しを終え、父の退院も終えたのは
良かったのですが、
訪問看護のこと、在宅医療のこと、
私もまだ産休に入る前で、毎日家に
いられなくて、いろいろと変化する毎日に
何とか対応する日々でした。

12月31日、
新年を目前にして、
私は、これまでのお正月を
思い出していました。
人が好きな父だったので、
兄の友だちや親戚が来て、
賑やかに年を越した時のこと。
家族だけでこじんまり年をこしたこと。

ビールも飲めず、
ベッドで寝ている父を見て、
来年はない父の正月を思うと
泣けてきました。

楽しい日々を思い出して。
生き生きと生きる父を思い出して。


私と旦那と3人で、ジュースで乾杯し
正月を迎えました。

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長女の誕生日 反省の毎日。

昨日は長女の4歳の誕生日でした。


4年前、予定日超過で41週6日、
帝王切開をしてから4年。

初めて見る我が子の可愛さと、その命の
重さに、衝撃を受けた日から4年。


ホントにかわいくて、
この子をちゃんと育てていけるのか、
守っていけるのか、
幸せにできるのか、
毎日顔を見ながら考え、

毎日「可愛いな」と
旦那と言い合いました。


2歳になり妹が出来てから、
我慢させること、
怒られること、
泣いてしまうことが増え、

3歳、4歳と感情が豊かになり、
自分の思いを伝えたり、
怒ったり泣いたり、もうすっかり
人間になり、


私は、子育てを忘れて、
人間対人間になってしまうことも
多くて。。

長女であるこの子に、
負担ばかりかけてしまって。


大好きなのに、
大切なのに、
否定ばっかりになってしまったり、


感情的になってしまったり。


本当にごめんなさい。


こんなに可愛いのに。
あんなに守っていくと誓ったのに。

一番傷つけてしまってるんじゃないか。。
と感じることもあって。。

まだまだ子どもで、
いらんことばっかりするのに、
それが子どもやのに、
分かってるのに、
怒ってばっかりで
ごめんなさい。


来年、5歳の誕生日には、

お母さんも5年目。

今年と同じ反省をしないよう、
もう少し優しく向き合っていきたいな。

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母の病気。手術は出来ない子宮がん。

母の病気が見つかったのは
父の病気が見つかってから二年後。

私が二人目を妊娠する前の
誕生日でした。


母はとても健康な人で、
疲れがたまったり、
膝や腰を痛めることはあっても、
今まで大きな病気もなく、
お酒もたくさん飲むのに、
肝臓はいつも健康でした。


思えば何度か、
すごい出血がある。と
言っていたのですが、
続くものではなかったこともあり、
病院にもいかずでした。

そんな母が子宮がん検診を
受けた結果、再検査。

もしかして…

でも、子宮がんなら、
手術でよくなるのでは?

その時、一度治療を終えた父が
再発し、その治療も終えた頃でした。


父の時と違って、私たちは、

「癌」

という病気と少しお近づきに
なっていました。

父だって治療は辛かったものの、
ちゃんと生きている。

癌になったからってすぐに
命を落とすわけではない。


でもきっと母はすごく怖かったと思う。
私はあの時、母の思いに寄り添えて
たのかな??

結局、子宮がんと診断されたものの、
場所がややこしく、今のままでは手術も
できないと。

放射線抗がん剤の治療で
癌細胞を小さくすることになりました。


父の食道がんの時には
放射線で食道が焼け、
副作用がひどかったですが、
母は少しお腹の具合が悪く
なったり、、という程度で、
治療も順調。


治療を全部終えた時には、
ほとんどきれいになくなり、

様子を見ていきましょう。

との事でした。


それから約一年後。

再発。

またか…

と私たちの中でもう、

「癌」

はとても身近なものになっていました。


それでも二回目の治療はしんどく、
副作用の症状もひどくなり、
救急車で運ばれることもありました。

父と母は、癌と友だちになってから、
健康な体とは別れなければなりませんでした。


それでも、私の世話を焼いてくれたり、

孫が来ればたのしく過ごし、

なんとか普通の日常を

過ごしていたのですが…

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人生最大の買い物。やっと買えたマイホーム。。

実は結婚して5年。
歳もそんなに若くないし、
賃貸でなかなか高い家賃を払うなら、
家を買おうと、何度か動いていたのですが、

ローンが組めず…

旦那はギャンブルはしないし、
たばこも吸わないのですが、
お金がない生活が出来なくて、
クレジットカードのリボ払いや、奨学金など、
返さないといけないお金があったり。。

喧嘩も増えるし、
お金のことで心配させられるのも
こりごりと、離婚も考えましたが、
子どもにとっては父親。


もうそれなら、家を持てるようになるまで
焦らず過ごそう。と自分に言い聞かせ、
賃貸の方が気楽かもしれない。とまで
考えていたのですが、

三人目の妊娠。
さすがに賃貸の家では
大きくなっていく子どもたちを
育てられない。

と三回目の家探し。

私は中古物件をリノベーションしたくて、
旦那は新築が良いという。


何件も内覧に行くものの、
高い買い物故に、なかなか決まらずで。


でも実家の近くにポツンと一件新築が
あったんです。
私的には予算オーバー。

でも、旦那がひどく気に入って。


実は付き合ってからずっと、
旦那は「お前がいいんやったらいいんちゃう?」
など、

「これがいい!!」

っていうことがなかったんです。。

いや、思ってても、
後で責任回避するために、
言わなかったんです。


ずるいですよね??

家を買うタイミングでそのことに
気付いた私は、

「家は自分の責任で選んでください。
 そのかわり、家計が苦しくなったら、
 寝ずにバイトしてでもローン払って
 下さいね」

と、旦那にすべてをゆだね、
何とかローンも組め、

なんやかんやと話は進み、家を探してから二ヶ月ほどで、
引っ越しを終えました。


その二ヶ月の間に、父はどんどん
痩せていきました。
いや、もう少し前から体はしんどく
なっていたようです。

この頃は落ち着く間もなく
色んなことがあり、
今思えば、あんなに思い悩んでいた
マイホーム購入も
たった二ヶ月ですべてが終わったなんて
嘘のようでした。

houseresearch.jp

三女の妊娠。~ここから始まった奇跡~

三人兄弟で育った私の夢は子どもを三人授かる事。


でも、結婚も遅くて、一人目の出産が30歳。

二人目は32歳。

頑張ったらあと一人いけるかな??

でも経済的にも肉体的にも、
今からまた妊娠して、出産して、
離乳食をして…というのはしんどいかな。。

と次女が一歳を迎え、人間らしくなり、
家族4人の生活に慣れ始めたころから、
三人目はあきらめ始めました。


毎日忙しく過ぎていき、
来るものが来ない月があり…。
それでも、長女、次女は、
計画妊娠だったこともあって
子宮や卵巣の具合が悪いのかな??
と思っていました。


そんな中、次女がRSウイルスにかかり、
仕事を休んでいる日々。
久しぶりに私もゆっくり。

あれ??
もう二か月もきてないな。
一度婦人科を受診しないとな。。

と考えていた時に、

「…??」

「そういえば、最近…」
「…もしかして??」

とまるでドラマのように気づいたんです。


その日のうちに検査薬をし、
週をまたいで病院に行きました。

「もっと早く受診しないと…」

と言われ、妊娠確定。


正直焦りました。
育休復帰したばかりなのに…
三人目はあきらめたとこなのに。

三人もいたら、頼れるものも頼れない。

経済的に本当に育てられる??

保育士といえど今はバイト。
仕事は続けられるのか。。

でも、授かった命をなかったことにする
選択肢はなく、
覚悟を決めました。


幸い、職場の上司も温かく
接してくださり、仕事も続けられることに。

半月後には切迫早産気味になり、
出血があって、病院にいったりも
ありましたが、なんとか無事に赤ちゃんは
育ってくれていました。



これが、三女の妊娠のお話。
三女が私のお腹に来てくれてから、
色んなことが動き出しました。

三女の出産を終えた今、すべてが
必然で運命で奇跡だったようにしか
思えないので、
私が思う奇跡を少しずつ順をおって
書いていきたいと思います。

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